Suy nghĩ tạo nên hành động,hành động biến thành thói quen,thói quen làm nên định mệnh.

表記法から見た日本語

日本語は表記法が豊富な言語です。なぜかというと、まず漢字の使い分け、平仮名の付け方とカタカナ使いのは色々あります。この点を見ると、ほかの言語に比べ、日本語が特色な言語です。特に、漢字を使い続けるので、日本語が特別な言語です。
日本語は、意を表す漢字と音を示す平仮名、カタカナが分かれています。英語、私の国語のベトナム語などにはそのようなことがありません。つめり、同じ発音でも、日本語では、書き方が様々あります。漢字を見ると意味すぐ分かります。そのおかげで、日本人の
読む力が高いだろう。漢字を中国から持ち帰って使うのは日本だけではなく、ベトナムも昔漢字を使っていましたが、今日常生活にはほとんどつ使われていません。ベトナム語が現在昔の漢字の読み方が全部アルファベットで表す、だが、そのため意味が混ざることが多い。
 また、漢字がすべて平仮名で読むから、日本語の発音が多く省くことができます。日本語の音が四十六の「あ、い、う」と「きょ、しょ」などの発音しかありません。日本語を習う外国人にとってとても便利です。少ない音だけでも、それを組み合わせて、豊富な意味を表現できるので、それが日本語のすばらしい言語です。もともと、漢字が中国で様々な読み方があるが、それを持ち帰る日本人はそのままで使わなくて、もっと簡単にしました。そのため、今漢字の特色点と保ちながら、不便な面を消すことができます。
 しかし、漢字を使うことで、良い面ばかりではなくて、良くない面もあります。文書をあまり書かない人が文書を書く時漢字を書けない。または、現在、コンピュータが良く使われているので、漢字を書く機会が少なくなります。漢字を読め書きことができなくなったら、人にとってもっとも大変だろう。
 日本語は時代とともに変化していく。そのことが日本語を勉強しているわたしは強く感じます。だから、日本語がこれからどのように変化するのか、漢字がどのように使われるのか分かりません。だが、日本人が向上心が強いので、日本語が今よりきれいに成ると信じます。

語彙から見た日本語

 日本語は他の言語に比べて、語彙が非常に多いと思います。三年間日本語を勉強する私はそのことを感じました。私は大辞典が70万語もあることに驚きました。もちろん、日本語を勉強する人にとって煩わしいことですが、考えてみると面白いこともたくさんあります。
 日本のテレビ番組をみて、私にとって一番面白いのは漢字の読み方を答えるクイズ番組です。その番組が日本にしかない番組だと思います。ベトナムではそのような番組がありません。ベトナム語が日本語ほど語彙が多くない、読み方も簡単で、便利と思いますが。そのため、ベトナムの表現が少ないです。語彙が多いおかげで、日本語の表現が豊になります。私は日本のアニメが大好きで、時々アニメを見て、そのアニメの人物の会話をベトナム語に通訳しようとすると、なかなか言葉が見つからない。ある時、ベトナム語に通訳できても、その会話の面白さが無くなってしまう。日本の作家も便利だと思います。日本の歌を聴いたり、小説を読んだりしてみると、難しい言葉も多く出てきます。だが、その言葉が分かるととても美しい表現です。だが、ベトナムに通訳された日本の小説を読んで、何にか物足りないような気がします。
 また、新しい語彙が次々に生み出される一方、古い語彙がだんだん無くなります。もちろん他の言語でも同じい現象ですが、日本語のように強く感じません。日本のお年寄りの人の言葉遣いと若者の言葉遣いは違います。同じ意味を持っているのに、色々な言葉があります。例えば、妻、家内、奥様、母ちゃん私たちの外国人にとって一番難しいです。いつこの言葉を使うか使わないか迷ってしまいます。だが、私は日本語を勉強すればするほど、そのことが分かったら、日本語が面白いと思うようになります。日本語が簡単に新しい語彙を作れるからです。日本語はいつも新鮮で、表現が豊かなから、私は日本語が美しい言語だと思います。
 しかし、日本語が豊富と新鮮な語彙を持つとともに、時々乱用したり、間違う日本語を使ったりする外国人と日本人がたくさんいます。美しい日本語を守るために私たちは正しい日本語を使うべきだと思います。

悩み力

第四章:「青春」は美しい
 恥ずかしい「青春」
 どうも日本人は「若い」と言われる時嬉しいと思います。しかし、「若い」とよく似た「青春」はどうでしょう。例えば、誰かに「あの人、青春している」と言う言い方には少しあざけりのニュアンスが含まれます。青春を使うこと自体、何か気恥ずかしい気がしたのです。この言葉は、すでに死語になりかけているかもしれないが、私は「青春」と言う言葉へのこだわりを捨てることができません。つまり、我々はすでに何かを失ってしまっているでしょう。
 三四郎と私
 人生は四季に例えると、「春」に当たるのは、青春時代ということでしょう。人間は何にかを卒業し、次のステップへ進んでいく時期です。しかし、立ちを往生したまま動けない人もいます。つまり、春と言うのはある意味で残酷な季節であるとも言えます。
 自分の青春を考える時、いつも懐かしい重ねて思うのは瀬石の「三四郎」です。三四郎は東京の喧騒のさなかに放り出されて、右往左往して、恐れと不安をいっぱい募っていた。上京したてのころの私は三四郎にそっくりでした。しかし、今は少し違います。小説が書かれたのは、日本は日露戦争で勝利し、本来ならもう少し時代に対する希望があるのですが、それがないのです。「三四郎」の中には、「時代は不幸な方向に向かっている。その流れを変えることはできない」と言う思いです。私は漱石文学の登場人物の中に、何か非常に「さまよっている」イメージを感じるのです。
 当時の私の中にも、「末流意識」がありました。世界に対する疑問、また、自分の生きる意味の疑問は頭から離れませんでした。意味がわからないから不安になり、不安だからまた意味を求めてしまう。とにかく何かを求めないではいられない、というのは当時の私でした。
 大学時代の私はウェーバーに夢中になりました。ウェーバーは生きづらい世界の中で人間はどう生きていくのかをもがきながら必死に問いかけていた。ウェーバーも漱石も、その青春時代を見ると、答えの出ない問いに苦しみづづける「青白い苦悩」と言ったようなものを感じます。当時の私は「私だけではなく、この人達もそうなのだ」と、励まされるような思いを抱いたのです。
 無垢なまでに意味を問う。 
答えのない問いに悩んでしまう。大人は、そのようなことは初めからしません。だから、私は青春とは、無垢なまでに物事の意味を問うことだと思います。「知りたい」というのは自分の内側から湧いてくる渇望なのです。未熟だから疑問を処理できなくて、自分を救われるころもあるし、危険に落ち込んでしまうこともあります。でも、それが青春と言う。ものです。青春とは明るいばかりのものではなくて、残酷なこともあります。特に問題がない人でも疑問や不安が考えさせられてしまう時期必ずあると思います。
 脱色されて乾いた青春
今、そのような苦悩とは無縁の青春を送っている若者がたくさんいます。そういう人達は、一見老成しているように見えます。が、本物の老成ではなく、そこの浅い老成です。つまり、気分的に老成しているだけだと思います。彼らはあらゆる人間関係においてあっさりしています。本来言うところの青春は、他者との間に深い関係性を求めようとするものです。しかし、今は、そうしたむき出しの生々しいことは極力避ける人は多い。それは、良い悪い問題ではないが、私は人間関係におけるインポテンツではないかと見ています。
 先日、韓国のソウル大学に行ったときにも、それを感じました。あの大学の学生は余計なことを考える時間があれば、スキルを身につけたり、英語などを勉強したりすべきです。おかげで、確かに英語のレベルは非常に高いようですが。私は何か違和感を覚えています。彼らは一流企業に就職できて高給をとれるかもしれません。しかし、その代わりに、青春だからこそ心から湧き出てくるひたむきなものを置き忘れてしまうのではないでしょうか。誰の人生の中にあるはず「青春」というものが知らずに終わる。それは不幸なことではないでしょうか。
 他人とは浅く無難につながり、できるだけリスクを抱えこまないようにする。世の中で起きていることにはあまりとらわれる。そんな「要領のいい」若さは、最初から脱色されている青春ではないでしょうか。そして、脱色されている分だけ、その裏返しとして凶悪なものや、醜いものを引き起こすこともたくさんあります。
 また、青春と言うのは年齢ではないと思います。若いころから悩み多い人間でしたが、中年になっても変わらず、ことあるごとにたち止っては考え込んできました。年をとっても。青春の要素をいまだに持っているからでしょう。幼稚ということでもあるのですが、私はそれでいいじゃないかと思います。人間が老成すると言うことは、極端に二つの形があります。それは「表層的に老成する」の形と「青春的に老成する」の形です。
 私は青春のころ、自分への問いを続けていました。結局、解を見つからなけれども自分が行けるところまで行くしかないのだという解をみつかりました。いつも相変わらずそう思っています。青春は挫折があるからいいのだし、失敗があるからいいのです。
 第五章 「信じる者」は救われるか
「スピリチュアル」百出
前世、世の中を注意してみると、新興宗教も含めて、「スピリチュアル」と言われます。ただ遊びとして面白がっている人もいるでしょうが、真剣に身を預けている人も少なくないでしょう。多くの人がスピリチュアルに魅かれるということは、それによりかかる度合はともかくとして、今の人々の「心」がかなり抜き差しならないとまできているせいではないか。
昔から「信じる者は救われる」と言われます。今の我々はの心の問題の多くは、「何にも信じられない」と言うところが原因ではないかと思います。「信じる」と言う行為はきわめて重要で、それは、「物事の意味を問う」と言う問題と密接に関係しています。
宗教は「制度」である
 現在の宗教は個人が自由に選べますが、かつての宗教は人々は選べなかった。つまり、昔、宗教と言うのは「個人は信じるものではなく」、「個人は属している共同体が信じているもの」だったのです。だから、「私は何を信じたらにいのか」と言う問いが生まれてきませんでした。これは、非常に幸せな状態だったと言えます。なぜかと言うと、すべての問いに対して、周りの世界が、あらかじめ用意してくれたのです。今我々は「個人の自由が縛られていて不幸だった」ともいます。が、当時の人々はけっしてふこうではなかった。
人「自由」から逃げたがる。
 信仰の覆いがはずされ、「個人」がすべての判断が託されてしまった近代以降、解決しがたい苦しみが始まったといえます。宗教などをぬいて、自分のやっていることの意味を自分で考えるのは非常にきつい要求です。これは人にとって大変な負担ですから、耐えられない人も出てきます。そこで、心のよすがとして、宗教が必要とされます。だが、科学と合理主義の洗札を受けた今我々は以前のように虚心に信じることできなくなった。では、どうしたらいいのかわからなくて、迷い子になりそうな不安に襲われるでしょう。一九二〇年代以降、ドイツが個人主義から全体主義へと移行してしまったことは一つの例として、人間は自由から逃げる傾向があるです。
「一人一宗教」「自分が教祖」
 現代、「個人」はキーワードになっていて、「個人の時代」とも言えます。ばらばらに切り離された個人個人が、情報の洪水と巨大化されたメディアのなかに、何にを信じるのか分からない、何にも信じない、無機的な気分になっているのではないでしょうか。そして、ウォークマンかIPODのように自分の都合に合わせて、着脱可能な「プチ宗教」として利用する状況になっている。人がそれによって何らかの答えや満足感を得ているなら、それでいいです。つまり、それを信じるか信じないかというのも、個人の自由です。ですから、究極的には、「信じる」ということは「何にかを信じる」ということではなく、「自分に信じる」ということになります。言うなれば、「一人一つ宗教」「自分が教祖」なのです。
確信するまで悩むしかない
人生とは、自分がどうすべきなのか選択せざるをえない瞬間の集積であり、それを乗り越えていくなめには、何にかを信じて答えを見つけなければなりません。人は信ずるところのものから、物事の意味を供給されます。意味をつかめていないと、人は生きていけません。そのため、様々な方法があります。しかし、何のものに頼らずにウェーバーや漱石のように、自分の知性だけを信じます。そして、彼らに最も尊敬の念を感じるのは、彼らは「自我」「何にを信じるか」と言う難問に、独力で立ち向かってつづけたからです。ウェーバーは神なき時代の信仰者のように、自分の知性を信じてぜったに譲らない人でした。漱石も同じく、彼の苦しみを何にも託するころができず、さらに苦悩します。彼らの著作を見ていると、その一字一字が血の滴るような苦行の痕跡なのではにかとか感じます。
 そして、かく言う私も、自分を信じるしかない、「一人一つ宗教」的に自分の知性を信じるしかないと思っています。自分でこれだと確信できるものが得られるまで悩み続ける。あるいは、その方法しかないの信じる。それは「不可知論」と言う人もいるでしょうが、中途でやめてしまったら、それこそ何も信じられなくなるのでわないか。

国語表現のレポート 第一回

 「日本語は他のすべての言語に対して特異なものだ」という考えは昔からありました。私はそいう考えを認めます。私は日本に来てから2年間で日本語を勉強していました。私は日本語を勉強する前に日本語は特にベトナムや英語とは変わらないだろうと思っていました。だが、日本語を勉強すればするほど、日本語は特色な言語と思ってきました。その理由は日本語の多様性です。
 日本語の多様性の一番判りやすいのは日本語が平仮名,カタカナ、漢字の三つの種類に分けられている、同じ漢字でも音読みと訓読みがあります。それに比べて、英語とベトナム語はアルファベットを使われていない、または中国語が漢字しかない。このことは、日本の文化と関わると思います。日本人は外来語を多く使っています。そのため、日本語はより多く表現を表すことができます。もちろん、より多く表現があるとともに、日本語を習うのにもっと難しくなります。
 また、同じ意味でも、場合によってまったく違う言葉を使います。私はそれが日本語の面白い点と思います。例えば、IとYou だけでも日本語で私、俺、僕、貴方、君、お前様々な言葉があります、その言葉によって表現が違います。日本語が尊敬語と謙譲語を細かく分けられています。他の言語もそのようなことがあるが、日本語のように細かく分けられていません。そして、地域、性別、年齢、地位、状況によっても言葉遣いが違います。グロータースは「日本人は実に語学の天才だ」といった、私はそれは言い過ぎないと思います。英語、ベトナム語では単なる意味を伝える役割しか有りますが、日本語は言葉だけで意味だけではなく、人の感情も含まれています。そのため、外国人に限りなく、日本人でも日本語を上手に使うのに難しいです。だが、その難しさの代わりに自分の感情を表せるし、相手の心も捕まえるし。そのおかげで、人間はお互いに理解しやすくなります。
 日本語が役割、表現が非常に多いから、日本語をどうのように正しく伝えるのが大切だと思います。

Ý bác là gì?

Các bác tự xưng là?đỉnh cao trí tuệ? ,đây là một phát biểu đỉnh cao của cái đỉnh cao ấy(*o*)
“Chúng ta đã kiện toàn được đội ngũ cán bộ theo đúng sự lãnh đạo của Đảng, bảo đảm dân chủ thực sự chứ không phải bỏ phiếu cho qua.Bảo đảm sự thống nhất rất cao, không áp đặt
http://dantri.com.vn/c20/s20-506808/tong-bi-thu-nguyen-phu-trong-khong-phai-bau-cho-qua.htm
Nói gì,chứ thế này em xin kiếu,ngưỡng mộ tư duy đồng chí (o)(o)